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科学の忘れもの

この世界で起こることすべては、いずれ科学で説明がつき、技術で再現することができる、という考え方があります。
もしそれが本当だとしても、実現できるのは遠い将来のこと。
おそらく科学や技術が進歩するほど、世界の謎は深まるばかりという方が、ありそうな未来です。
すでに科学技術によって解決済みとされているテーマにしても、よくよく見直してみれば、落としものや忘れものだらけ。
しかもそれらは、いちばん大切で、しかも日々の生活のすぐそばにあったりするようです。
たとえば、勘や気配や予感をはじめ、合理的に説明されたように思えても、どこか腑に落ちないものは、決して少なくありません。
思えば現代文明はずいぶんたくさんの忘れものをしてきてしまいました。
しばしの間、立ち止まって、あれこれ思い出してみるときが来ているのかもしれません。
来るべき科学や技術の種は、そんな忘れものの中で、見つけられるのを、いまや遅しと待っているのです。

堀場製作所

グルメとスポーツと音楽と。

レシピ通りに調理された一皿が必ずしも美味ではないように、身体能力に秀でた者がそのままトップ・アスリートではないように、またミスのない演奏が聴衆に感動を与えるとはかぎらないように、人間の情動や能力は、なかなか一筋縄に説明できるものではありません。ワインの味や香りを伝えるために多くの表現が費やされる一方で、間合いや隙、ゾーンやグルーヴといった名状しがたい言葉が多くのパフォーミング・アートの眼目となっています。そして優れた料理人やスポーツマン、そしてアーティストが共通して備えているのは、そんな言葉にならない感覚の記憶力と再現力にあるようです。

◉SNSにアップされる画像のトップ3は、子ども、ペット、そして料理でしょう。我が子自慢、ペット自慢はともかく、どんなに美味い一皿でも、その味は画像では伝えられないものなのに、どうして自分の食事の内容を公開したくなるのでしょうか。もしかすると伝えられないからこそ、伝えたくなるのかもしれません。そもそも料理は、どんな場所で誰と食べるかによっても、美味い、不味いが決まるものです。料理そのものの評価にしても、味や匂い以外に、食感や温度、色や形や盛りつけも重要な要素になります。ちなみに青色には食欲を減退させる作用があるように、青い料理にはめったにお目にかかることができません。

◉味覚の要素としては、古来、甘・塩・酸・苦・辛の五味が考えられてきました。近年では、辛味に代わって旨味が加えられることが多いようです。この5つの味覚要素によって、科学的に料理の味を再構成するという試みもなされています。しかし実際には、辛味物質(痛覚を刺激)、アルコール、炭酸などの化学的刺激が五味に加わり、えぐ味や金属味、アルカリ味、冷涼味なども料理の印象を大きく左右します。油(脂)が味覚に影響を与え、満足感を与えることはよく知られています。「コク」に至っては、その正体はまだ解明されていません。また酒の風味を判別する利き酒、つまり「聞き」酒という言葉もあるように、味は単純に味覚だけで割り切れるものではないのです。

◉味は我々に食事の楽しみをもたらす以前に、甘味がエネルギー、塩味がミネラル分、旨味がタンパク源の補給のためのシグナルでした。また酸味は腐敗に対する、苦味は毒物に対する危険信号であったとする説もあります。食べ物の好き嫌いは、どこかでそんな危険信号にスイッチが入ったままになってしまったことによるのかもしれません。

◉音楽もまた、他者にその体験を伝えることが困難です。メロディ、リズム、ハーモニー、そして音色がその要素ではありますが、こられらの要素を楽譜やデータにしたところで、音楽的な感動を共有することは不可能です。むしろドライヴやグルーヴと呼ばれる高揚感は、ピッチやリズムの微妙なズレやゆらぎによってもたらされます。電子的にプログラムされた正確なリズムの繰り返しは、一種のトランス状態を引き起こしますが、音楽としては「味気ない」ものではあります。

◉音楽におけるグルーヴとよく似ているものに、アスリートたちが「ゾーン」と呼ぶ状態があります。たとえば格闘技で相手の次の動きが読める、あるいは高速のボールが止まって見えるといった状態で、心理学では「フロー」と呼ばれます。そこには、緊張とリラックス、忘我と覚醒が同時にやって来ます。

ワイン風味の嗅覚的表現の一部

◉「フロー」や「ゾーン」は日本においては、文化のいたるところに仕掛けられてきました。その精神の状態は、禅定のそれとほぼ同じだからです。禅の境地は、西洋流のメディテーションとは全く異なります。メディテーションは、瞑想あるいは黙想と訳されるように、眼を閉じて黙って想いをめぐらせる方法です。ときは感覚を遮断することも勧められます。禅では何かを想うことは御法度です。たとえ何かのイメージや想念が浮かんでも、即座に棄てなければなりません。ある物理学者は、禅定を脳内にカオス状態をつくり出すことに喩えています。禅では感覚はむしろ開かれた状態に置かれます。オープンでいて、こだわらないことこそが、禅の特徴の一つなのかもしれません。

◉茶の湯や生け花、武術や和歌・俳句までが、禅の影響のもとに発展してきました。それらが芸道や武道として「道」を求めるものとされたのは、いずれも「フロー」状態が理想とされたことによるのでしょう。また芸道や武道では「型」が重視されます。型はときには「かまえ」とも呼ばれました。もちろんそれは技を伝承するためでもあるのですが、「心構え」や「気構え」という言い方があるように、単純にテクニック伝授のためだけのものではありません。「かまえ」は姿勢のあり方や呼吸法でもあり、それによって感覚をある状態に導くものでもあったのです。武道ならば、相手の息を読み、それを吐く際に生じる「隙」に瞬時に反応できる「フロー」の状態をつくり出すためのものが「かまえ」にほかなりません。

◉邦楽では、合奏のときでも指揮者役やリーダーは不在です。もちろんカウントをとるなどということもありません。互いに息を読みながら、気を合わせて演奏を開始することになります。そこでは呼吸や衣擦れの音やからだの動き、あるいは「気配」が感覚的に交換されているのでしょう。しかも、邦楽の拍子は洋楽のリズムとは異なり、緩急がつねに伸び縮みしています。このような拍子を持つ文化は、西洋にないのはもちろんのこと、東アジアでもごく一部の地域に限られます。しかもたいていの場合、邦楽ではリハーサルもしません。演目は決まっていても、邦楽はフリーインプロヴィゼーションに近いのです。

◉一見「ゾーン」や「フロー」とは無縁のような茶の湯も、本来は特別な感覚をもたらす芸道です。そもそも茶自体が覚醒のための飲料でした。かつては喫茶するだけで、非日常の感覚が覚醒していました。お手前はパフォーマンスアートであり、薄暗い茶室は、わずかな光で道具やしつらいの微細な変化を味わうための場であり、そこは、主と客、演じるものと演じられるものが交代し続ける、不思議な舞台空間でもあったのです。

一杯の茶が世界になり、哲学になり、政治になった。