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科学の忘れもの

この世界で起こることすべては、いずれ科学で説明がつき、技術で再現することができる、という考え方があります。
もしそれが本当だとしても、実現できるのは遠い将来のこと。
おそらく科学や技術が進歩するほど、世界の謎は深まるばかりという方が、ありそうな未来です。
すでに科学技術によって解決済みとされているテーマにしても、よくよく見直してみれば、落としものや忘れものだらけ。
しかもそれらは、いちばん大切で、しかも日々の生活のすぐそばにあったりするようです。
たとえば、勘や気配や予感をはじめ、合理的に説明されたように思えても、どこか腑に落ちないものは、決して少なくありません。
思えば現代文明はずいぶんたくさんの忘れものをしてきてしまいました。
しばしの間、立ち止まって、あれこれ思い出してみるときが来ているのかもしれません。
来るべき科学や技術の種は、そんな忘れものの中で、見つけられるのを、いまや遅しと待っているのです。

堀場製作所

センサーは感覚しない。

センサーとはもちろん、物理量を信号に置き換える装置のこと。その名称は「感覚装置」を意味しますが、センサー自体が感覚しているわけではありません。温度計が摂氏0度を指していても、それを冷たいとか、寒いとか、ときによっては暖かいとか感じるのはあくまでも人間です。感覚世界は「心」の中に生まれるものなのです。しかも人間の感覚器官はセンサーとはまったくの別物でもあります。ちょっとした変化には敏感であっても、一定の刺激が続けば麻痺することだってあります。しかも、目の前のリンゴの赤い色が、他人にどう見えているのかを、確かめる術はありません。

◉ 晴れた日の空は青い、という言い方は実は正確ではありません。空からの電磁波が目に届くとき、我々は空が青いと感じているのです。つまり空の青さを決めているのは、空そのものではなく、我々自身。つまり空からの電磁波を受けて、脳が青空の感覚を引き起こしているのです。そういう意味では、我々の感覚世界は、ヴァーチャルであると言うことができます。ならばAの見ている世界とBの見ている空は別ものだということにもなりかねません。確かにそれがまったく同じであるかどうかを判別するわけにはいきませんが、脳のシステムが基本的に同じであり、AとBとの間にコミュニケーションが成立する以上は、おおむね同じだと言うことはできるでしょう。

◉ 魚の眼が魚眼レンズであるからといって、魚たちが魚眼レンズをつけたカメラで撮影したような世界を見ているわけではありません。人間と魚では脳そのもののシステムが大きく異なっているからです。またミツバチは紫外線を「見て」いますが、彼らの世界が紫外線カメラによる世界像と同じわけではありません。どのように世界を感受するかは、「心」や「自我」と深くかかわっていると思われます。しかも感覚はまた、感情あるいは情動のトリガーでもあります。心が脳の働きだけで構成されているかどうかはともかく、論理や情報をいくら詰め込んでも、それだけではコンピュータやAIシステムが心を獲得するというわけにはいかないようです。

◉ 論理的であり理性的であることは、人間にとって大切な資質であるとされます。しかしそれが「正論」や「理屈」だからといって、必ずしも無条件に得心できるわけではないように、いくら合理的で正しいと思われる考え方も、腑に落ちない限り、それは「屁理屈」でしかないのです。我々の判断は論理的であるよりも、まず感覚的であるのでしょう。もしかすると論理とは、感覚のごく一部しか説明できないものなのかもしれません。だからこそ論理的な「正しさ」は時代や文化によって、いかようにも変幻するのです。

◉ 感覚は経験によって学習され、その精度をアップさせることもできます。一方で、同じ刺激に長時間継続して曝され続けると感覚は鈍摩します。とりわけ強い光や音、そして化学物質の刺激に満たされた都市生活が、現代人の感覚に甚大なダメージを与えているというデータもあります。また20世紀になって人類がはじめて体験する人工的な電磁波が、たえることなく我々の周囲に満ちています。そのような環境が、人間の感覚にどんな影響を与えているのかはまだよくわかってはいませんが、もしかすると我々の感覚のあり方を変え、さらには従来の論理が通用しない未知の世界を生み出しつつあるのかもしれません。

刺激受容器=比較器説による感覚のしくみ

◉ 雑誌や漫画を中心に電子書籍が普及を遂げ、タブレット端末で新聞誌面をチェックする人も増えてきました。本家のアメリカでは伸び悩んでいるとはいえ、メディアとしてはすっかり定着したと言えるでしょう。コンテンツを読む、あるいは情報を入手するということでは、これらの電子メディアは必要かつ充分なものであるかもしれませんが、サプリメントで栄養補給はできても、食事の楽しみは味わえないように、読書の醍醐味という点では、もの足りないという人も少なくありません。本を読むという営為はコンテンツに触れることに加えて、どこかで他の複数の感覚が動員されているようです。

◉ ものの見え方は、空間に対して知覚が設定する「基準面」を頼りにして成立しているとされています。紙のような不透明な平面がその代表です。ところがテレビやコンピュータのディスプレイの光の面は、そのままでは基準面にはなりません。ディスプレイ画面は、あくまでも視知覚が経験的に仮定した上で、はじめてとりあえずの基準面になるのです。そこにはやっぱり、無理があります。だから眼も疲れるし、それ以上に脳が極度に疲労することになるというもの。スマートフォンを一日平均3時間見ている人は、人生の8分の1をスマートフォンに費やしていることになります。人生80年として、総計10年になります。コンピュータが日常化してからでも、たかだか30年。テレビやラジオや携帯電話の電磁波と同様に、基準面のないディスプレイが我々の脳と感覚にどのような影響を与えるのかということは、まだ実験の段階です。そして我々自身がほかならぬその実験動物でもあるのです。

◉ 近代以降、音の世界もその姿を大きく変えました。様々な機械や建築構造が発する低・高周波が、環境に満ちています。ただし音楽の世界は逆行するように、レコードがCDになって可聴領域を超える音がカットされ、ステージ演奏さえマイクやアンプを通した音が聴衆に届けられるのが普通になりました。音楽が貧弱になったと嘆く人もいます。耳に聴こえない音も含めての音楽だったのです。マイクロフォンの発明も、たかだか100年ほど昔のこと。そんな中、自分の部屋の照明や冷蔵庫などの電化製品の音は気に留めないのに、隣の家の生活音に過剰に反応するようになりました。現代人の耳は鈍感になっているのか、敏感になっているのか、その見極めは難しいところです。

◉ 科学技術の進展とともに、仕事も暮らしも飛躍的に便利になりました。しかし道具が便利になるということは、感覚を含む我々自身の身体能力が不便になるということでもあります。マッチの登場によって、いまでは自分で火を起こせる人はほとんどいなくなってしまいました。

子どもたちにとって、スマートフォンは最初から世界の一部である。