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科学の忘れもの

この世界で起こることすべては、いずれ科学で説明がつき、技術で再現することができる、という考え方があります。
もしそれが本当だとしても、実現できるのは遠い将来のこと。
おそらく科学や技術が進歩するほど、世界の謎は深まるばかりという方が、ありそうな未来です。
すでに科学技術によって解決済みとされているテーマにしても、よくよく見直してみれば、落としものや忘れものだらけ。
しかもそれらは、いちばん大切で、しかも日々の生活のすぐそばにあったりするようです。
たとえば、勘や気配や予感をはじめ、合理的に説明されたように思えても、どこか腑に落ちないものは、決して少なくありません。
思えば現代文明はずいぶんたくさんの忘れものをしてきてしまいました。
しばしの間、立ち止まって、あれこれ思い出してみるときが来ているのかもしれません。
来るべき科学や技術の種は、そんな忘れものの中で、見つけられるのを、いまや遅しと待っているのです。

堀場製作所

遊び〜無味無臭の自然。

人間にとって、かつてより自然は貴いものであるとともに、怖れの対象でした。それはいまも変わることがありませんが、文明、とりわけ西洋文明はそんな自然を人間の力でコントロールしようとしてきました。いわゆる環境問題は、そんな力づくの歴史への一つの反省を促すきっかけであったのかもしれません。一方、現代のわれわれは、宇宙や深海をはじめ地球上のあらゆる地域を写真や映像で知ることができます。多様で美しく厳しい自然を居ながらにして体験できるようになりました。しかし、そこに満ちているはずの匂いや雰囲気には、なかなか思いを致すことがありません。地震や津波も自然のひとつの表情です。「理想化された自然」を前にしている限り、人間はますます自然から遠ざかっていかざるを得ないのです。

●遊びは「競争」「偶然」「模倣」「目眩(めまい)」の4つに分類されるといいます。日本語では、「ハンドルの遊び」というように、余裕や無駄の意味にもなりますが、そもそも日本語の遊びは、「神を遊ばせる」、すなわち芸能の原型を意味する言葉でした。身体活動とも深くかかわっています。現代のゲームやパズル、あるいは余暇とは、だいぶニュアンスが異なります。ITは、ゲームやパズルの世界を大きく発展させましたが、本来の日本語があらわす「遊び」からは遠く離れてしまいました。何より、そこからは「からだ」が脱落しています。もちろん位置情報ゲームのようなものもありますが、それらは逆に現実を「情報化」することによって成立しています。

●確かに現代の遊びにも、「競争」「偶然」「模倣」「目眩」の要素は揃っています。しかしそこからは、「からだ」とともに、遊び本来が持っていた要素が排除されています。かつての遊びの多くは、「正解」を求めるものではありませんでした。作り手、もしくはプログラムが設定した「正解」や「目標」に向う遊びは、もはや遊びというより「受験」に近いものになっているようです。

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