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科学の忘れもの

この世界で起こることすべては、いずれ科学で説明がつき、技術で再現することができる、という考え方があります。
もしそれが本当だとしても、実現できるのは遠い将来のこと。
おそらく科学や技術が進歩するほど、世界の謎は深まるばかりという方が、ありそうな未来です。
すでに科学技術によって解決済みとされているテーマにしても、よくよく見直してみれば、落としものや忘れものだらけ。
しかもそれらは、いちばん大切で、しかも日々の生活のすぐそばにあったりするようです。
たとえば、勘や気配や予感をはじめ、合理的に説明されたように思えても、どこか腑に落ちないものは、決して少なくありません。
思えば現代文明はずいぶんたくさんの忘れものをしてきてしまいました。
しばしの間、立ち止まって、あれこれ思い出してみるときが来ているのかもしれません。
来るべき科学や技術の種は、そんな忘れものの中で、見つけられるのを、いまや遅しと待っているのです。

堀場製作所

野生〜データ化する身体。

かつて人間のからだは、宇宙のミニチュアでした。とりわけ女性の身体は、地母神のモデルにもされ、神聖なものとされてきました。しかし近世ヨーロッパでは、一種の機械と見なされるようになり、病いや不具合は修理しなくてはならくなってしまいます。一方で、身体の構造が明らかにされるにしたがって、それはあらためて人々の好奇心を刺激し、江戸時代の日本のように、風景や名所に見立てられることもありました。しかし、間もなく身体は機械や風景でさえなく、数値データの集積へと転じ、各種装置や化学物質で管理されるようになります。

●「文明」と「野生」を対比させたとき、野生には「粗暴」で「残虐」なイメージが付与されがちです。しかし、古代ローマのヨーロッパ侵攻以来、アメリカ開拓時代やアフリカの植民地時代をはじめとして、残虐なのはいつも「文明」の方でした。効率や実利の前では、文明は容赦しないものです。わたしたちの身体をめぐっても、同様のことが言えるかもしれません。血糖値や血圧など、あらかじめ設定されている数値から外れた途端、それが一時的なものであっても、「異常」の烙印を押され、薬物が投与され、ときとして身体的な苦痛を強いられることにさえなります。

●問題は、数値の異常ではなく、わたしたち自身がほかならぬ「野生」を失っていることの方にあるのかもしれません。自然の中の動物たちのように、自分のからだが欲するものを食べ、欲するように行動することで、病いの多くは避けられ、あるいは自然のうちに治癒するはずです。厄介なのは、自分自身が何を欲しているのがわからなくなっていること。つまり社会的立場や対人関係、そして効率重視の生活などが壁となり、自身の「野生」の声が聞こえなくなっていることにあるようです。

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