Interview #01脳とカオスと北辰一刀流

合原 一幸

1954年生まれ。東京大学生産技術研究所教授、同最先端数理モデル連携研究センター・センター長。専門は「カオス工学」、「数理工学」。脳神経系を対象にカオス理論による数理モデルの構築を行っている。

脳の中の感覚世界

脳は感覚受容器を通じて、外界から信号を取り込んでいます。外界からのボトムアップの信号と同時に、内的にはトップダウンの信号が存在する。入力信号が処理されるときには、必ずボトムアップの信号とトップダウンの信号が脳内で出会います。両者がそれぞれの経路をとって出会い、大脳皮質の中で相互作用することで、われわれは外界を認識する。両者の出会う場所やメカニズムも、最近の神経科学の進歩で少しずつ明らかになってきています。
また、われわれが自分の部屋の配置を説明するようなときには頭の中で映像を思い浮かべますが、そこでは外界からの入力なしに、本来は感覚信号を受容し処理するシステムが、トップダウン信号によって動いていると予想しています。
視覚情報も、あくまでも脳の中で再構成されたものであり、感覚は脳の中でつくられているといった方がいいかもしれません。大脳皮質は6層構造をなしており、その神経回路網の中で処理された情報で、われわれは感覚を認識しているわけです。外界の内部モデルのようなものを含め、脳には非常に大きな記憶の世界があり、それと入力信号とのダイナミックスで処理をしているというのが、高等動物の脳の感覚機構です。
トップダウン信号を生み出す仕組みについては、意識にも関連していますが、実際にはよくわかっていません。前頭前野も重要です。特に、われわれは感覚器からの信号を単純に受容しているのではなく、常にどこかに注意を向けている。感覚入力を処理した結果に応じて意識的、あるいは無意識的に注意を向け、それでまた感覚が変わる。その感覚入力と内部の情報処理はダイナミカルに動いています。それはいわゆるフィルタリングではなく、あくまでも動的な過程であって、必然的にカオス的な状態が生じてきます。
同じ対象を見ても、人によって、また同じ人でも昨日と今日で、違った印象、あるいは違ったものを見るということは、経験や記憶によって拘束されているという説明もできますが、広い意味では非線形特性によるといえます。たとえば多義図形は、同じ一枚の絵に複数の解釈が成立するという、まさに非線形的なものです。非線形性があってダイナミズムがあると、当然のようにカオスが生じる。多義図形でも、ネッカーキューブの場合は、見ているだけで二つの解釈が切り替わっていきますが、老女と娘の両方に見えるような絵では、老女だけをずっと見ていることができる。意識することによって切り替えられるわけです。非線形性による多義性には、ほとんど無意識のうちに切り替わるものと、意識が介在してはじめて切り替わるものとがある。無意識の情報処理も、実はたいへん重要です。

合原教授の蝶のコレクション。羽の紋様パターンの生成もカオス工学の素材の一つ。

合原教授の蝶のコレクション。羽の紋様パターンの生成もカオス工学の素材の一つ。

ゆらぐ「鶺鴒の尾」

昨年の大河ドラマは坂本龍馬が主人公でしたが、龍馬が修業した北辰一刀流では、切っ先を上下に動かす「鶺鴒(せきれい)の尾」が有名です。「鶺鴒の尾」のようなゆらぎは、感覚の受容と深く結びついている。感覚系にカオスのような不安定性があると、どんな入力にもただちに応答できるわけです。固定された不動状態では、入力に対し静止状態から動作に入るため応答が遅い。実験的にも、視覚野や嗅覚系などでは外界の情報入力を受容する部分の活動が、自発的にゆらぐというデータがあります。
おそらく剣術の場合、本当に効率のよい切っ先のゆらぎは、無意識のうちになされている。そこを私のような未熟な剣士は、意識的にやろうとします。無意識のうちに効率のいいカオスがつくり出せる人が強い。それは無意識にどんな状態にも応答できる基底状態がつくれるということです。多様性や可能性が豊富だということでもあります。意識していると、意識にはまったときはいい応答ができる一方で、裏をかかれやすい。
達人同士の対決では、相対しながら動的に相互作用をしているのでしょう。相互作用で測り合って、一手も合わせずに「まいりました」などということも起こるわけです。カオスは状態空間の中でストレンジアトラクタというアトラクタを描きますが、そのアトラクタの次元やトポロジカルな形状が、カオスの能力と関係する。達人たちは、無意識のうちにこのカオスを感じとっている可能性もあります。注意を向けていない外部入力も、無意識によって処理されていますが、達人はそういうものも含めて、いつでも取り出せるのかもしれません。意識は一つなので、意識的には一つのことしか実行できない。それ以外は並列的に無意識でやっている。その能力が高いかどうかが重要なのです。
数学的な発見などでも、同じことが言えます。アダマールの『数学における発明の心理』(1945)に、前の晩まで考え詰めてわからなかったことが、翌朝目覚めたとたんに答えが出た、という話が紹介されています。しかも答えはそれまで考えていたのとは違う方向にある。集中して意識的に考えている仮説以外の思考も無意識下で同時に動いていて、それが何かのきっかけで意識に浮上し、ほぼ完全なかたちで答えが出る。意識というのはほんの氷山の一角で、重要なことは広大な無意識の領域でやっている。もちろんどんな問題も、ある程度の時間は集中して徹底的に考え抜くことが必要条件です。それが前提となって、無意識でも思考過程が動きはじめるように思える。そうして、しばしば無意識の発見が起こるわけです。脳にはそういう面白さがある。

禅と連想連鎖

禅に興味があるのですが、大学院を突然中退して仏門に入った友人から座禅には「思いの手放し」というコンセプトがあることを教わりました。ものを思い浮かべると、連想の連鎖が起こる。座禅をしているときも、当然思いは浮かぶ。どうやら、その浮かんできたものを手放してやるという状態を保つのが、座禅の一つの狙いらしい。難しいのは、思いを手放していると意識した瞬間に、手放せていないことになる。言葉でいうほどやさしくはありません。禅僧たちは何十年もかけて、そういう状態を目指して座っている。だから、座禅と瞑想はまったく違うもののようです。
「思いの手放し」状態の保持は、カオスと似ている。思いを次々に手放す状態を一本の直線であらわすなら、思いを追って連想している状態はこの線から、たとえば上方にどんどん離れていきます。逆方向へ離れると眠りに落ちる。連想も眠りもしない状態を保持するという感じは、カオス軌道が少しでもずれると大きく外れていくところに似ています。
われわれにとっては連想状態が普通であり、むしろそちらを研ぎすませようとしてきました。「思いの手放し」は、そうではなく、生きている原点に帰るというものです。もちろん完全な手放し状態がずっと維持されるわけではなく、ゆらいでいるはずです。その状態こそが、まさにカオスだと考えられます。日本の武術や芸能が禅と結びつくのも、おそらくそんなところに理由があるのでしょう。

ホワイトボードに描かれた禅の「思いの手放し」状態(赤い破線)の図。上方が連想、下方が眠り。

ホワイトボードに描かれた禅の「思いの手放し」状態(赤い破線)の図。上方が連想、下方が眠り。

ホメオダイナミクスへ

これから生体機能を考える上では、ホメオスタシスではなく、ホメオダイナミクスという考え方が重要です。カオス的なゆらぎはその典型例で、脳におけるホメオダイナミクスの解明が、われわれのテーマでもあります。一般に思われている以上に、脳はダイナミカルな存在です。情報処理もダイナミカルで、だからこそ臨機応変な対応もできる。しかも意識的に考えるということは脳のごく一部の機能で、無意識をどう理解するかということも重要です。また連想連鎖にしても、基本的には過渡状態の連鎖です。これまでの科学は、定常状態がどう変化するのかということを主に扱ってきましたが、過渡状態が次々に連鎖して情報を処理し続けるという脳の機構を解明することも、大きな目標となっています。