Interview #05感覚世界と生物の「脳」

「自己」と密接に結びついた「感覚」……
物理世界に生きながら、われわれの自己は、
つねに脳の中につくられた感覚世界と向き合っています。

小林 茂夫

京都大学情報学研究科教授。1947年生まれ。京都大学工学部卒、東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。研究分野は、生体情報処理、感覚生理学。著書に、『脳が作る感覚世界─生体にセンサーはない』(コロナ社)がある。

生体には
センサーはない

最近、人間の五感をロボットに持たせようとの試みが盛んです。ロボットにセンサーをつければ人と同じことができると思いがちです。しかし、人とロボットでは、外をとらえるしくみがまったく違います。ここでは、人間の感覚の概要を説明します。詳しくは拙著『脳が作る感覚世界』をご覧下さい。人工のシステムを作る際の参考にしていただければ幸いです。
体の外には、色や音、甘さや、におい、暑さ・寒さがあり、それらを五感でとらえると、私たちは思っています。しかし、物理学が明らかにしたように、体の外にあるのは、電磁波、空気波、化学物質、温度(分子運動)やものなどの物理・化学的なものです。「物理学の世界では、色とか、暖かさとか、冷たさとか、音とか、そういうものはなんにもない」と朝永振一郎は述べます(『物理学とは何だろうか』朝永振一郎、岩波新書)。それでは、いったい、色や音、暑さ・寒さはどこにあるのでしょう。
カナダの脳外科医ペンフィールドは、てんかん治療のため、感覚に関わる脳地図を作りました。意識がある人の脳を露出してその体性感覚野を針で電気刺激し、どんな感覚が生まれるかを聞いたのです。すると、刺激場所に応じて、手や顔、足などがさわられたとその人は答えました。一方、聴覚野を電気刺激すると、ノックする音などが外から聞こえると答えました。色や音、暑さ・寒さなど外にあると人が感じているものは、実は、脳細胞の活動が心に生んだ仮想現実であり、脳の中にある感覚世界なのです。
では、外の物理世界と中の感覚世界とは、いかにして関係づけられるのでしょう。生理学では、感覚の受容器は、物理量を活動電位(インパルス)の発火頻度という符号(コード)に直して脳に送る変換器(トランスジューサ)と説明してきました。そして、その符号が脳で解読されるといいます。もしそうなら、たとえば温度の符号が脳で解読されたとき、元の温度に戻るはずです。しかし、脳の中に温度表示はありません。人に生まれるのは、外が暑い、寒いとの感覚です。物理世界と感覚世界とはまったく異なる世界ゆえ、等価変換を前提とする符号の伝達では、両者を関係づけることはできません。
皮膚には、皮膚温が閾(しきい)より低い時にだけインパルスを引き起こす低温受容器があります。その応答から、低温受容器は皮膚温が閾より低いかどうかを比べ、低い時にだけ駆動信号を出すスイッチだとの新しい概念に私は到達しました。一方、皮膚温が閾より高いときにだけインパルスを引き起こす高温受容器があります。この受容器は、皮膚温が閾を超えたときにだけに駆動信号を出すスイッチだといえます。
皮膚温がさがると、低温受容器はインパルスを神経線維上に発生します。そのインパルスは脳に達し、標的細胞を活性化します。一方、皮膚温がさがると、その皮膚が冷たいとの感覚が人に生まれます。だから、届いたインパルスで標的細胞が活性化すると、その細胞に蓄えられた「情報」が発現し、皮膚が冷たいとの感覚が人にうまれるのだと考えられます。これは、電気刺激で脳細胞が活性化したときに感覚が生まれるというペンフィールドの結果に対応しています。
こうして、感覚系とは、比較器つきの鍵盤を持つ楽器ととらえることができます。外の物理量は、それに適した鍵盤だけを選んで弾きます。すると、弾かれた鍵盤に連なる標的細胞だけが活動し、その中の「情報」が発現します。そのとき、物理世界によく対応している暑さ・寒さや音、色のある感覚世界が、本人の目の前に現れます。
楽器は、等価変換系ではありません。それゆえ、次元の違う二つの世界を関係づけることができるのです。電磁波や空気波、温度が広がる物理世界を人は直接知ることはできません。それに代わり、音や色、暑さ・寒さにあふれた感覚世界を仮想現実として脳に作り出すことで、人は外の世界をとらえます。私たちにとって感覚世界だけが理解できるものです。だから、感覚世界が外に実在していると、人は感じるのです。
かくして、符号で情報を伝える人工システムと、楽器を演奏する形式の感覚系とでは、外をとらえるメカニズムが根本的に異なります。生きものの脳のなかでは、符号はいっさい使われていません。

ゾウリムシの脳?

外から物理量が加わると、それに対応した「情報」があらわになるといいました。では、その「情報」は、どんな物質にいかなる形式で書かれているのでしょう。私たちは、これまで、人間やマウスを対象としてきました。しかし、人の脳には100億をこす膨大な数の神経細胞があります。だから、どの細胞が標的細胞か、また、どんな物質に「情報」が書かれているかを調べるのは至難のわざです。細胞数が少ない生物個体なら、この問題に迫れると私たちは考えました。いくつかの候補を探した後に行きついたのが、単細胞生物です。

ユープロテス Euplotes aediculatus。まるでミジンコ(節足動物)のような単細胞生物。

ユープロテス Euplotes aediculatus。まるでミジンコ(節足動物)のような単細胞生物。

ゾウリムシ Paramecium caudatum。

ゾウリムシ Paramecium caudatum。

単細胞生物は、約38億年前に地上に生まれ、現在までも生き延びています。一方、約10億年前に、多細胞生物が単細胞生物から枝分かれしました。すなわち、単細胞生物が地球上の先住者であり、生命の原型といえます。多細胞生物は後発の生きもので、単細胞生物のコピーととらえることができます。そこで、単細胞生物の細胞内には、生き続けるのに必要なすべての要素があるはずです。
いま、単細胞生物として繊毛虫のゾウリムシとユープロテスを対象とした実験系を立ち上げました。これらの細胞の中に脳に相当するものがあると仮定して、実験をすすめています。