日本の感覚技術 3マタギ 
山と生命をともにする

日本の伝統的な狩猟集団であるマタギは、かつては山立とも呼ばれていたといいます。マタギの語源は、鬼より強い又鬼、シナの木(マダ)の皮を剥いで利用するため、山を跨ぐように活動するため、などの諸説がありますが、真偽は定かではありません。また山に入ると里言葉に代えて、山の神を畏れ尊び、日常生活の「汚れ」をはらい猟場を汚さないために、イタズ(クマ)、コシマケ(カモシカ)、セタ(イヌ)、サンペ(心臓)、キヨカワ(酒)などのマタギ言葉を使います。かつては弓矢や槍を用い、江戸時代より火縄銃、明治以降は村田銃、現代ではライフルを使用するようになりました。伝承では、弓の名人であった万事万三郎がマタギのはじまりとされています。万三郎は、日光権現と赤城明神との争いに際し、日光の神を助け赤城明神の化身である大蛇(一説に大百足)の目を射抜いた功績で、全国の山で狩りをしてもよいとする認可状である「山達根本之巻」が与えられたといいます。

松橋 光雄

阿仁マタギ[阿仁地区猟友会]

GPSは頭の中にある

マタギの起源と
感覚技術

マタギの起源には、平家説や源氏説があります。壇ノ浦の合戦で敗北した平家が落ち延びて、その一団の500人から千人が信州の飯田に入った。そこから新潟に向った一団と日光に向った一団がいて、日光には300人ほどが到達したとされています。日光からさらに北上し、最後の一団の18人がここ、秋田の阿仁に来たといいます。だいたい1650年あたりのことでした。今から約400年前のことになりますが、この頃から阿仁がマタギの里といわれるようになりました。どちらかといえば平家説が強いようです。しかし阿仁の集落には源氏の流れを汲んだ人もたくさんいますので、源氏説も否定できないと思います。
マタギには、日光派と高野派がありますが、阿仁に来たのは日光派だとされ、日光派にはさらに青葉流と小玉流と重野流の三つの流れがあります。われわれは重野流を継いでいます。日光権現と赤木明神との闘いで日光権現を助けた弓の名人、万事万三郎が、末代まで日本全国の山で狩りをしてもよいという認可状「山達根本之巻」をいただいたという伝承があります。これを手書きで写したものを、それぞれのシカリ(マタギ集団のリーダー)が所持し、代々受け継いでいます。写すとき、シカリになった人の考え方も入るため、大元のものとは少しずつ違っているのではないかと思います。私の家にも「山達根本之巻」があり、マタギの神様も神棚に祀られていました。マタギの神様はいわゆる山の神。女の神様です。醜女で嫉妬深く、自分より醜いものが好きなので、オコゼを奉納する風習があります。
現在、阿仁には44人のマタギがいますが、私がはじめた頃は200人近く、昔はもっと多かった。狭い猟場を分け合っていたので、いわゆる旅マタギもいたようです。大正あたりまでは、かなり遠くまで旅をし、獲物を物々交換したりして、各地域の人たちに助けられながら活動していました。長野をはじめ各地にマタギがいますが、単身2〜3人で行う猟、5〜10人で行う猟、集団で行う巻狩から、猟具を用いたゴモジ、ククリワナ、ウツチヨー、ヒラオトシ、穴オトシなど、ほとんど阿仁のマタギが技術を伝えていったもののようです。
マタギを専業とするものは、昔から少なかった。冬は雪にとざされ、現金収入できるような場所もないので、猟をして歩いたわけです。春は山菜、夏は魚、秋は栗やキノコなどをとりながら生活していたのではないでしょうか。いよいよ冬になって、マタギになる。あるいは普段は農業をやり、冬はマタギというような暮らしだったのでしょう。現在のマタギの繁忙期は11月、初雪の頃からです。
私が生まれた時代は、家の床の間に村田銃が掛けてありました。ただ銃は女子供が触れるものではなく、扱えるのは父親だけでした。私が山に入るようになったのは、小学校5年生の頃です。父親に連れられ、スキーやかんじきを履いて、犬のかわりに追い上げ役をやった。そういう場で、狩りの方法を覚えていくわけです。鳥獣の季節による生息場所や生態、山での状況判断などの方法を、小さいころから見てきました。具体的に教えられることもありますが、見て覚えるのが基本です。たとえば静かに雪が降るときは、ノウサギはだいたい暗い林の中にいる。風が強く樹木についた樹冠が地面に落ちるような日は、木の近くにはいない。昼の間、雪がドサドサ落ちてくるような場所では、夜行性のウサギは落ち着いて寝ていられないので、雪の落ちない開けたところで休んでいます。ヤマドリもクマもキツネも、気象によって休んでいる場所が全部違います。山に入る前に、気象条件で獲物がどこにいるか推測する。勘と知識と体験によって判断するわけです。
そのあたりは、なかなか言葉では説明できないことも少なくありません。私がこんな状況の山地にはクマがひそんでいないじゃないかなと思っても、先輩たちが「いや、この近辺にいる」と断言することがありました。そういう判断は、ほぼ的中します。穴の中で休んでいるクマの猟を「アナグマ猟」といいますが、仮に休むために入った穴か長期間の冬眠のための穴か、というような見立ても的確でした。痕跡を見る力、見立てる力は不可欠です。
ヤマドリは、人間が近づくとホロウチといって、羽根をばたばたさせて縄張りを主張するので、ヤマドリの集団がいることがわかる。鳴き声ではないので、これはマタギでないと聞き分けられないでしょう。また、クマの足跡が途中から突然なくなっていることがあります。水の流れている沢に、ぽーんと飛んで、沢つたいに逃げていくわけです。狭い沢であっても、不思議なことに沢の両側の雪にはまったく痕跡を残していない。登ったのか下ったのか、足跡がないのでわからないはずなのですが、経験をつむとだんだんわかってくる。足跡を見失った場所をていねいに見直し、そこの様子でどちらに向ったかを判断する。沢に入る前の歩き方で見分けるわけです。冬眠に向ったクマなのかそのあたりに遊びに出たクマなのかも、歩いている状況、つまり足跡で見分けることができます。

JRグループ「秋田デスティネーションキャンペーン」ポスター

JRグループ「秋田デスティネーションキャンペーン」ポスター。中央は、かつてのマタギ装束を身につけた松橋氏。

 

山達根本之巻

「山達根本之巻」。マタギのリーダーであるシカリの家に代々伝えられたもの。書写の過程でそれぞれの内容には若干の異同がある。

変わりつつある
クマの習性

クマは冬眠のあと柔軟体操するとも言われていますが、5か月も寝ている冬眠のあと、すぐに全速力で走ったり木登りすることができる。人間が5か月も寝ていたらリハビリからはじめなくてはなりません。人間にこれができたら凄いという観点から、クマの生理を研究している学者さんもいます。クマは冬の間に生んだ子どもを一年間連れて歩いていろいろなことを教え、もう一年冬を越して、5月か6月頃に、ひとりだちさせます。クマのイチゴ放(ぱな)しといいます。野生の野イチゴが一面に生えるところがある。そこで美味しいイチゴを子グマが食べているうちに、親は子を置き去りにして遠ざかっていく。それ以降は親グマは子どもを絶対に受け入れません。クマの成人式です。
クマが子を連れているときに、子どもはやんちゃにあっちこっちを走ってまわる。そのときに親が呼び寄せる。子どもも声を出す。静かな山の中を歩いていると、子連れのクマがいることがわかる。また、縄張り争いのときは、雄グマが山いっぱいに聞こえるような声を出します。
人間の気配が彼らに伝わらないようにするために、出猟の前は煙草とか整髪料はひかえます。いまでは、水垢離するということまではしません。ただ最近のクマは人間に馴れてしまっている。人里に出てくるクマはそういう人間になじんでしまったクマです。人間が食べ残しやゴミを山に置いたままにするので、人間の匂いに馴れるのです。本来、クマの天敵は人間だけ。本来は、人間が怖いということを、親グマが子に教えている。近頃は人間の怖さを教えないクマがいるようです。人間社会にも道理に外れている人がいるように、クマ社会からはみ出たクマもいます。銃で撃たれたり怖い想いをしたクマは、絶対に人里には降りてきません。いくら美味しいものでも、人間の匂いがすると食べない。
マタギは必要最小限のものしか獲りません。伝統を保存しながら狩りを続けていくには、無闇に野生動物を獲ることはできない。森も守らなくてはなりません。昔は中山間地の林地や田畑の手入れが行き届いていたのですが、近年、中山間地が荒れている。クマをはじめ野生動物も、山と中山間地の区別がつかなくなった。私が子どもの頃は、カモシカもクマも人里に出てくることは皆無でした。いまはクマが頻繁に人里まで出てくる。自然のバランスが崩れているようです。あと十年もすると野生動物の増えすぎで、大変な状況になるでしょう。大きな原因はハンターの減少です。銃刀法によって非常に厳しく制限され、狩猟税が非常に高くなっている。趣味でも仕事でも同じ税率です。ただし、マタギとハンターはまったく違うものです。単独で歩いて、ルールやしきたりや先人の教えを気にしないのがハンター。生息数や野生動物の状態や山の状況などを勘案しながら狩るのがマタギです。マタギ勘定という決まりがあります。狩りに10人参加したとすると、誰が捕獲しても獲物に対して10人すべてに同じ権利がある。同じ量の肉が分配される。見ていただけの人にも同じ量が分配されます。ハンターでは多くの場合、狩りはゲームであり、個人の成果です。

クマ狩りと山の禁忌

マタギについては、ツキノワグマの狩りが有名ですが、阿仁のマタギの本来の対象はカモシカでした。戦前、兵隊の寒冷地用の衣服でいちばんいいもの、つまり保温性のあるものがカモシカの毛皮でした。肉も旨いとされています。またカモシカの角はイカ釣の疑似餌にも、漁師のお守りにもなります。海と山との間で、オコゼとカモシカの角が交換されていたわけです。もちろんカモシカが天然記念物になる前の話です。以降、狩りの対象の中心がカモシカからクマになった。クマの毛皮も暖かいし、熊の胃、つまり熊の胆汁は高価で取引されます。
クマを仕留めたときには、頭を西に向けて仰向けにします。伏せておくと、クマが死んだ振りをしているような場合、すぐに飛びかかってくる。完全に仕留めたことを確認すると、イヌツゲの枝をクマにかざして呪文を唱え引導を渡します。呪文は「山達根本之巻」で伝えられたもの。山に入るとき、獲物を獲ったとき、皮を剥ぐときなどに唱えます。何代も伝授されているので、呪文もクマの頭を向ける方角も、流派によって微妙に違っているようです。次に、心臓、肝臓、背肉を3切ずつを3本のクロモズの串に刺し、手で持って焚き火に炙り、1本は山の神に供え、残りは次の豊猟を願い、いただく。解体してから山を降りることもありますが、そのまま引っ張ってきて、里人の前で解体することもあります。

「山達根本之巻」に記された呪文

「山達根本之巻」に記された呪文。右より入山、捕獲、皮ボ解(獲物の解体)時に唱えられるもの。真言の影響がうかがわれる。

 

マタギに不可欠の道具、ナガサ(山刀)

マタギに不可欠の道具、ナガサ(山刀)。木を切るのは刃の根元、肉を切ったり皮を剥いだりするには尖端と、分けて使う。

ある程度悪天候であっても、山に入らないと、経験が蓄積されない。長い年月をかけて、たとえば暗くなったとき、雨で谷川が増水したとき、表層雪崩が起きそうな日などに、どんなコースをとると安全かというようなことが身についてくる。山の地形や様子もすべて頭に入っていて、自分がいまどこにいるかもわかっています。頭の中にGPSが入っているようなものです。暗闇の中でも迷うことはありません。国の防災課からはマタギはどうして遭難しないのか、と不思議がられているほどです。
山中ではマタギ言葉で話します。里言葉では、動物に感づかれるともされてきました。山のルートを指示するときも、地図にない地名を指示する。これもマタギだけにわかる言葉でしょう。
山では、鉄砲はもちろん、木の枝でも長いものを人に向けてはいけません。人に威圧感を与えるためです。また銃口は絶対人のいる方向に向けてはなりません。銃を担ぐのも禁じられています。転倒したときに暴発する危険がありますし、クマが逃げの体制に入ることを「イタズをカツイダ」と言うので、担ぐことは、ゲンが悪いともされている。こういう禁忌は誰が破っても、そこで猟は中止。かつては、山に入る前日には女性に近寄ることも禁忌でしたが、いまはそこまでのことはありません。
山では不思議な出来事も、何度か体験しています。チェーンソーで木を切っている音がして、風もないのにばりばりドドーンと倒木の音がする。誰かいるかとその場に行ってみると、人の気配もなく、木を倒した痕跡もなくシーンと静まりかえっている。タヌキの仕業だとされていますが、もちろんタヌキの姿も見えない。山にはそういう不思議が、たくさんあります。私は、山に入ること自体は怖くはありませんが、いつかまた不思議な体験ができるかもしれないという気持ちを、つねに持って歩いています。