07 感覚の不思議脳内スクリーン、ただいま上映中。

もしも人間の目や耳が、お尻についていたら、
意識や心はお尻に宿るかもしれない。

◉ 「不思議な感覚」といえば、大方の人は気配や予感や第六感を思い浮かべることでしょう。しかしいまのところ、それらは既知の感覚が複合的に働いた結果であるとしてとりあえず片付けられることが多く、科学のテーマとして正面からはとりあげにくいままにあります。そうはいっても私たちは日常的に、ヘッドホンステレオやケイタイに「気」をとられているとき、周囲の「気配」に無頓着になっていることを実感しています。気配をとらえるためには、視覚や聴覚への過度の集中によって他の感覚がマスキングされていることが大きな障害になっているわけです。

◉ 気配や超感覚については、ひとまず将来の科学にあずけることにして、私たちが当然のように共有していると思っている「普通」の感覚をあらためて考えてみると、それらもまたさほど確固としたものではないことがわかります。ある人の感じる「夕陽の赤」と別の人の感じる「夕陽の赤」が同じであるという保証はなにもありません。料理や音楽などのように、好き嫌いの判断が介在しやすい場面では、なおさらのこと。感覚は、経験や社会システムによっても左右されるものです。

◉ 森羅万象をどのように感じとるかは、文化によって異なります。たとえば、南太平洋アンダマン島のオンギー族は匂いによって世界を把握し、メキシコのツォッツィル族にとっては熱が世界の構成要素です。五感のうちのどれが支配的感覚となるかは、一義的に決まっているわけではないようです。

◉ 実は五感という概念も、文化的につくられたもの。仏教では精神を六番目の感覚としていますし、ナイジェリアのハウサ族は感覚をふたつ、すなわち視覚とそれ以外に分類しています。西洋の五感はもとをただせばアリストテレスによる分類であり、おなじみの視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚からなります。現代の科学では、触覚はさらに運動感覚や温度の知覚、苦痛の知覚など、多数の専門感覚に分けられており、ノーム・チョムスキーのように言語能力もまた生得的な感覚能力に類似した力であるとするケースもあります。さらに、赤ん坊にはコウモリのように、発した音がものにあたって反射してくるさまで外界を知覚するソナー能力があることや、人間にも初歩的な磁気感覚があることさえ解明されてきました。

◉ 現代文明を支配している感覚は、視覚です。日常生活の中の音や匂いはおしなべて雑音や悪臭としてあつかわれ、排除される傾向があります。マーシャル・マクルーハンによると、(西洋)文明が聴覚中心から視覚中心へと移行する端緒となったのがアルファベットの発明ということになります。かつては話し言葉が知識獲得のもっとも重要な手段でしたが、文字の使用によって視覚が使われるようになったからだ、というものです。そして印刷技術に続き、写真、映像、テレビの登場によって、視覚文化はますます強固なものとなり、同時に社会の非人格化、個人主義化、分業化がもたらされてゆきました。ほかならぬ「科学」もまた視覚を駆使することで、はじめて発展することができたのです。

◉ そうはいっても、やはり視覚には他の諸感覚とは大きく異なる特性があることも事実です。人間の視覚は、もっともヴァーチャルな知覚です。嗅覚や聴覚では感覚受容器官と大脳皮質における対応領域との「位相距離」がごく短いのに比べ、視覚ではデータが処理されるまでに「長い」プロセスを要しています。網膜で受容されたデータは、そのまま大脳を縦断して後頭部の視覚野に送られますが、そこでデータは処理されることなく、岩に当たった波がはね返されるように、ふたたび前方の皮質の諸領域に送り返されます。その結果、視覚にかかわる処理機能は新皮質の領域を多くしめることになります。そんな「長い」プロセスを経るため、多くの「計算」処理により、データの変換度が増すわけです。私たちは現実にあるものをそのまま見ているのではなく、感覚器官からの信号をもとに脳が創作したイメージを見ているといってもいいかもしれません。たとえば、網膜上の投影像はレンズの性質により周辺部では歪んでいますが、脳はそれを修正して脳内スクリーンに投影しています。写真と視覚的経験に大きな差があるのは、脳にも原因があったわけです。

◉ 多くの哺乳動物は色を色として見ていません。色は明暗の区別だけです。およそ3000万年ほど前から一部のサルの祖先が、赤色に感度をもつ目を獲得しました。多少の例外をのぞいて、現在のサルの仲間には、赤い光に不安を覚えたり、赤色のものを嫌がる傾向があります。人間の網膜でも赤と緑の色覚はその中心に集中しており、赤はもっとも基本的な色彩であるようです。この赤は光の波長によって、とりあえず客観的に定義できます。実際、これまで「純正の赤」が、多くの科学者たちによって定義されてきました。ところがそうして定義された赤を、私たちは現実には視認できていない可能性があるといいます。もっとも鮮やかに見えるはずの「赤」に対し、人間の目はほとんど感度をもっていません。そんな赤は脳の創作だったのです。人間は、脳が上映しているスクリーンのなかで生きていたのです。