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科学の忘れもの

この世界で起こることすべては、いずれ科学で説明がつき、技術で再現することができる、という考え方があります。
もしそれが本当だとしても、実現できるのは遠い将来のこと。
おそらく科学や技術が進歩するほど、世界の謎は深まるばかりという方が、ありそうな未来です。
すでに科学技術によって解決済みとされているテーマにしても、よくよく見直してみれば、落としものや忘れものだらけ。
しかもそれらは、いちばん大切で、しかも日々の生活のすぐそばにあったりするようです。
たとえば、勘や気配や予感をはじめ、合理的に説明されたように思えても、どこか腑に落ちないものは、決して少なくありません。
思えば現代文明はずいぶんたくさんの忘れものをしてきてしまいました。
しばしの間、立ち止まって、あれこれ思い出してみるときが来ているのかもしれません。
来るべき科学や技術の種は、そんな忘れものの中で、見つけられるのを、いまや遅しと待っているのです。

堀場製作所

知能はおおむね妄想のために|倉谷 滋[進化発生学者]

反射と知能には境界がない

ディープラーニングは、結局のところ人為淘汰のようなものと考えています。多様な事例を見せておいて、境界条件にそってアウトプットを出す。そのアウトプットに○×をつけて、判定基準をシェイプアップしていく。そういったところがつまり、「表現型を選ぶことで、それをつくり出すゲノムを安定化させていく」というプロセスとよく似ているわけです。アルゴリズムを組み上げるというより、コンピュータを進化させていると考えた方がいいのでしょう。そうするとAIのIが示すものの問題と、動物がいつから知能を持ったのかという問題とをパラレルに考えられるはずです。

動物が外界から光や音などの刺激を受け、それに対してどう反応するかが、「知能」の原型といえるかもしれません。最初は簡単なニューロンの反射球が、単純なロジカルシステムをつくり、繋ぎ間違えている個体が排除され、そのプロセスを通じて次第に精妙な回路がつくられ、二段、三段のロジックを入れて、複雑でさまざまな条件づけにも対応していく。人間の脳も高次ニューロンとはいうものの、煎じ詰めれば介在ニューロンのかたまりです。そして、反射と思考と知能の区分けがあるのか、どの段階から知能と呼べるようになるのかというと、その境界はグラデーションになっていて、ナメクジが這っていることと人間が動いていることの境界も、おそらく厳密にはないと思います。

失言した大臣や芸能人が、「なんであんなこと言っちゃったんだ」と後悔する。誰もが日常的に体験することです。ほとんど反射的な発言で、思考しているようには見えない。「私としたことが」という言い方は、自分がやっていることをモニターする意識とか自我とかいう部分が働くヒマもなかったということなのでしょう。それもその人の人格のうちなのでしょうが、いずれにせよ人格も知能もほとんど、広い意味での反射の延長にあると言えます。こうして考えると、AIのインテリジェンスが、本当にインテリジェントなのかも疑問です。逆に、人間の「知能」も同様で、アンドリュー・ワイルズがフェルマーの定理を解いたときの大脳、あるいはニューロンの働きは、それは興味深いけれど、駅の切符の自販機を前に、「このやろー、おつりが出ないじゃないか!」と怒鳴って自販機蹴飛ばしているオヤジも同じ人間の脳を使っている。人間の仕事でも、日常的にどれほど知性や知能が使われているのかというと極めて心もとない。機械にはできない人間の独創性とか、よく言われますが、そういうことだけを人間の仕事だとすると、私を含めて仕事ができない人間ばかりになりそうです。たしかに、AIが順等に発展すると、人間のできることの多くを代替できるようになるだろうとは思います。人間は、機械に奉仕されるだけの存在になる。いつか、『タイムマシン』に出てくる紀元八〇二七〇一年のイーロイのようになるかもしれない。

擬態する自然知能

チューリングテストは、相手が人間か機械かを判定するものですが、それはテストしている人間の側の知能にかなり依拠している。騙されやすい人もいるし、厳しい人もいる。結局、自分が感じているのと同じような自我をもっていて、頭の中のプロセスを体験しているかどうか、それを判定するものですから。突き詰めれば、相手とコミュニケーションがとれていると思うのは、たとえ相手が人間であってもまずは幻想であり、このテストはつまるところ、その幻想が成立するかどうかを判定しているわけです。

体験としての知能は、コミュニケーションベースの意志の疎通、あるいは相互了解、相互理解のことです。逆説的には「騙し」も同じです。騙すならそれ相応の知能があるのだろうということになる。そこには、あるプログラムがメッセージの受け手の反応を想定して、それなりの仕組みを動かし、実際に受け手を騙すというプロセスがある。それを知能と呼ぶのなら、擬態している昆虫のジェネティックプログラムもまた、一種の知能ということになります。そこにはリアルタイムのコミュニケーションはないけれど、生き残るための一種のロジカルシステムのようなものがあって、その結果が受け手に伝わりたしかに目的を達成している。擬態している昆虫の発生プログラムはいわば、知能のアルゴリズムときわめてよく似ているのです。スカシバガという蛾が日本にいますが、こいつは弱いくせにスズメバチに擬態する。蛾ですからスズメバチのように頭部は大きくない。頭の小さな蛾が、前脚を頭部の横にもってきて頭部を拡げるような格好をする。その結果、彼らが飛んでいる姿は驚くほどスズメバチに似ている。まるで区別が付きません。羽音までもそっくりです。そういう行動と形態を制御している発生プログラムなり神経ネットワークみたいなものによって、我々は確実にあるメッセージを受けとり、スカシバガがやろうとしていることにまんまと嵌っているわけです。一方的な騙しではあるけれど、確かにコミュニケーションと似たものがここに成立している。だから擬態とか様々な動物の適応能力も、進化の過程を通じて出てきた一種のインテリジェンスじゃないでしょうか。もちろん彼らにそんな「つもり」はないけれど、そう見えてしまう。主体や自我にもとづいて発動しているわけではないという意味では、インテリジェンスではないかもしれませんが、相手に意識があるかどうかはその相手でなければわからない。人間同士でも同じです。あるという仮定のもとに、照れたり怒ったりしているだけなのです。

何も考えないで一日がはじまり、一日が終わる

マンガの『攻殻機動隊』に、思考戦車のタチコマが「ゼノンのパラドックス」を持ち出し、「キミは自己言及のパラドックスも理解できないのか。原始的なAIなんだね」と別のAIを虐める場面がありました。「AIに自己言及性がわかるか」というのは、「AIに洒落がわかるか」という問いに近い。洒落を学習するのは可能だとしても、その背後にあるロジカルシステムを弄ぶ人間の性向を読みとることまでは、AIにはできないでしょう。知性は、ロジック間をジャンプする「人間だからこそのいい加減さ」抜きには語れません。

そもそも人間は、それほど「知能」を使って生活しているでしょうか。あらためて思い返してみると、大抵の場合、一日中何も考えない、あるいは深く考えないで生きています。研究者でも研究室に入って、コンピュータを立ち上げてメールを読んで、言われたことに対応する。書類の作文もしますが、所詮書くことは決まっている。面倒ではあっても知恵は必要ない。効率的に仕事を進めるために頭は使うけれど、やっていることは単純な手続きの繰り返しで、気がつくと夜になって帰る。その行動のなかで腹が減ったら飯を喰う、珈琲を淹れる。珈琲を淹れるときも、からだの動きはほとんど反射的です。どこに何があるかもあらかじめはっきりしている。たまたまフィルターが切れていたら、そこではじめて考える。そこで知性が活躍する。つまり、普通にものごとが進んでいるときは、何も考えない。だから家を出たあとにガスを消したか、鍵をかけたか不安になる。そういう行動にはいちいち思考などしていない。会話にしても同じことです。いちいち文法や文体を吟味して喋ってるわけではない。言い換えれば、人間の行動の中で本当に知能を使っているという瞬間がどれだけあるかということです。研究でもたいていの仕事はフローチャート通りに手続きを踏んでいるだけです。そこで必要とされているのは知能というより、むしろ遺漏を避ける注意力です。さすがに実験を考えたり論文を書いたりするときには頭を使います。が、その作業の中でも、やはり決まり通りにやっている部分はかなりある。論文の基本はレポートなので淡々と書けばいいのですが、やはり人の心をつかみたい、インパクトをもたせたいと思う。欲が働くわけです。そして、そういったときにようやく創造性が試されるわけです。

人間の知恵はオーバースペック

行動生態学の長谷川眞理子さんによれば、人間は人間として生活する以上の、異様に高い知能を持っているといいます。脳の機能は異常なのです。これが体の他の部分だったら、話は簡単です。たとえば大腿骨一本を折ろうとすると生体として活動しているときにかかっている最大の応力の倍以上の力が必要になる。それくらいの構造じゃないと捻挫や肉離れが起きやすくなる。だからそれは実際に必要な強度です。そういうダブルキャパシティがあってぎりぎりです。しかし人間の知能も同じように説明できるかというと、それは違う。先にも言いましたように、ただ単に生き続けるためだけなら知能はあまり必要ない。ダブルキャパシティでは脳の機能は説明できないのです。じっさい、日常的には脳はあまり機能していない。スーパーマーケットに行って、今日どれくらい買い物しようかと足し算するのが関の山です。それが普通の人間の算数であって、科学者であってもそんなに数学を使わない人は多い。私の場合、微積分や偏微分方程式まで使うことはまずない。それでも、ちょっと心得のある人だったらアインシュタインの相対性理論はなんとなく理解できる。面白いのは、それが日常的にはまったく必要ない能力だということです。長谷川さんによれば、生きるため以上に高いこの能力は、実は異性の気を惹くためにどれだけ頭をつかうかを通じて進化してきたと言うことらしい。思えば、人間が一生の間で一番悩むのは、ポリティクスとか人間関係、ライバルとの闘い、性的なパートナーの獲得という場面でしょう。相手を怒らせて、反省し、ここが自分のいけないことだと納得し、韜晦する。そういう経験が人間の頭を錬磨してきた。そこに淘汰がかかってきた。この知能はどうやら、単なる生存のためと言うより、人間関係やコミュニケーションのたまものらしい。さらにいうなら、脳は欲望を満たす、あるいは擬似的に欲望を満たすための妄想ジェネレータともいえます。人間の知能の異常な高さは、人間独特の欲望を満たすための妄想に大きく依拠していることになる。自分の中に他者をつくり、類推してシミュレーションして、あれこれ試行する。

よく知能のおかげで、弓矢を発明してマンモスを倒すことができるようになったみたいな説明がされますが、人間の知能はそんなレベルではない。その程度のことだったらフェルマーの大定理なんていつまで経っても出てこないでしょう。人間の能力は、生活に必要なレベルをはるかに超えている。一見、不必要に思えるほど、ダブルキャパシティをはるかに超えています。人間は普段は知的に行動していないにもかかわらず、異常なほどに賢すぎるのです。

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