#06見えないものを見る力

小松 和彦

1947年、東京都出身。文化人類学者、民俗学者。妖怪論、シャーマニズム、民間信仰などを研究。国際日本文化研究センター教授・副所長。著書は『神々の精神史』『憑霊信仰論』『異人論』『妖怪文化入門』『いざなぎ流の研究』など多数。

空間には
質的な違いがある

見えないもの、説明できないものを「ないもの」として切り捨ててきたのが近代でした。しかし理屈では妖怪や幽霊は存在しないと割り切っていても、山の中の一軒家で夜中にひとりで便所にいくような状況では、ほとんどの人が怖さを感じるはずです。昔、ひとりで四国に調査に行ったとき、深夜に川のせせらぎが聞えてきた。だんだんそれが囁きに聞こえてくる。頭では水の音だとわかっていても、自分にとっては、やっぱりそれは人の囁きなのです。
同じように、深い山に入ったり、海に漕ぎ出したりするときには、怖さを感じる。あるいはときに、災害の予兆を感じたりする。そういう説明不能のものが、「山の神」や「ヤロカ水」などと呼ばれてきた。つまり妖怪になったわけです。現代人にも、本当は見えないもの、説明できないものを感じる力はあるはずです。ただ、われわれは語り方や語りの場を喪失してしまい、個人的な体験を共同化しにくい状況に生きている。メディアの発達とともに、ローカルな共通認識や共同幻想も失われてしまった。
妖怪を感じることの根底には、生理的な恐怖があり、そこに文化的な要素が加わっている。たとえば山や海には、遭難しやすい場所があります。そういうところには自然そのものに、先人たちの経験が積み重ねられている。それを知っているか知らないか、あるいは感じるか感じないかが、分かれ目です。感じないと、妖怪には出会わないし、野中の一軒家でも夜ひとりで便所に行ける。それは合理で割り切ることで世界をつまらなくしている。空間には質的な違いがあることを理解している方が、文化的にも豊かなのです。

 

Column 1
ヤロカ水

主に木曽川流域に伝承される妖怪。激しい雨の夜、川が増水するとやがて、「ヤロカヤロカ」(欲しいか欲しいか)という声が上流から聞こえてくる。声に答えて「ヨコサバヨコセ」と叫ぶと、瞬く間に川が増水して、答えた人のいる村は一瞬のうちに水に飲み込まれる。川面に赤い目や口が見えることもあるという。慶安3年(1650)9月の尾張国・美濃国の洪水、貞享4年(1687)8月の木曽川洪水、明治6年(1873)の愛知県犬山町の洪水などでの体験談が伝えられている。

 

『怪奇鳥獣図巻』より

◉『怪奇鳥獣図巻』より

妖怪によって
救われるもの

妖怪がいるかいないかということは問題ではありません。妖怪は失った文化をとり戻すツールなのです。明治以降、宗教も哲学として語られるようになりましたが、実際には仏教にしても、もともと妖怪たちを抱え込んでいたのに、とりわけ神仏分離で大きなものを失ってしまった。本当は神道と仏教の両方を合わせた見方があって、日本の社会・風土の中で有効に機能していたはずなのに、素朴なところでの声の聞き方、妖怪の感じ方がうまくいかなくなってしまいました。われわれは、妖怪や得体の知れないものをとり戻せないまでも、「あった」ということだけは忘れてはいけないと思います。文化の中にとどめてさえおけば、体験としても呼び戻す契機にはなる。
実際、若い人たちは、妖怪という言葉は非常に便利だと言います。これまで得体の知れないものを見るような人は、「変だ」と決めつけられ、病院に連れていかれたりしましたが、ある程度共同体の中で救われる状況がつくられつつあります。妖怪を語り合える状況と言ってもいいでしょう。

江戸と現代の
怖れの感覚

江戸も中世に比べると都市化がすすみ、妖怪が実体験を離れた情報として流布するようになり、鳥山石燕(とりやませきえん)のように妖怪の図鑑をつくって楽しむようなことも行われましたが、まだ楽しむことと怖れることの境界はせめぎ合っていました。楽しみながらも、狐狸の類いが人を化かすということは、真剣に信じられていた。われわれの幽霊やUFOに対する態度とそれほど変わらないかもしれません。いずれにしても、どこかに線が引かれている。

 

Column 2
鳥山石燕

正徳2年(1712)‒天明8年(1788年)。妖怪画を多く描いた江戸中期の浮世絵師である。安永5年(1776)に著した『画図百鬼夜行』がベストセラーとなり、妖怪絵師としての地位を確立し、続編となる『今昔画図続百鬼』、『今昔百鬼拾遺』、『百器徒然袋』を次々に発表。現代にまで通ずる妖怪のイメージを確立した。石燕によって初めて描かれた妖怪も多い。まさに見えないものを見せてくれた絵師である。弟子に恋川春町、喜多川歌麿らがいる。

江戸の場合は、妖怪は平面に描かれても、立体にはしない。つまり人形にしない。人形にすると、付喪神(つくもがみ)のように霊が宿るのではないかという怖れがあったようです。だから江戸時代には妖怪像、妖怪玩具というのはきわめて少ない。実はそういう感覚も、まだわれわれの中にある。家の中に飾られた人形に気味の悪さを感じる人も多い。死者の霊や魂に対する怖れも失ってはいない。理屈では割り切っているつもりでも、無視できない。それが自然やものをめぐる怖れの感覚なんだと思います。魂や霊は文化です。社会がつくりあげたものであり、社会の記憶です。文化は身体と一体になっているので、捨てるわけにはいきません。いまも「慰霊」とか「鎮魂」という言葉が使われています。妖怪という言葉で楽になることがあるように、霊や魂という言葉があることで楽になる。そういうものを想定することで、人は現実を生きられるのです。

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Column 3
附喪神

器物の妖怪のことを、室町時代の人びとは「つくも神」と総称していた。「つくも神」は「つくも髪」でもあって、「附喪」はもともと「九十九」と綴り、九十九の歳月を意味する。それは、水中の岩などに藻がつくほどの歳月が経っていること、また九十九年もの長い歳月が経った器物には霊が宿り、しかも、化ける能力さえも獲得する、と当時の人びとは考えていたことをあらわしている。重要文化財指定の『百鬼夜行絵巻』(真珠庵蔵)には、多様な「つくも神」が描かれている

 

見えないものとの
関係を結ぶツール

生きるためのツールとしての妖怪や魂は、自然や災害との関係のかたちかもしれないし、亡くなった人たちとの関係のかたちかもしれない。たとえば山とのかかわりの中で、山の神という言葉を通して、山との関係をとり戻せる。山が海の豊かさを支えているという合理性もわかりますが、やはり気配とか山から感じる思いとかが、まずあるはずです。現代は、そういう気配や思いを交わせる場や関係がつくりにくくなっていますが、寺社詣でやお遍路はまだ機能しています。自然やものの声を聞くためには、そういう関係性をつくる装置が必要なのです。
お寺や神社、芸能や祭りは、そういう見えないものとの関係の結び方のひとつの装置でした。社寺に詣でるとき、多くの人はそこにどんな神様あるいは仏様が祀られているか知りません。西洋から見れば変な話ですが、日本人にとってはそれでいい。自然や見えない力と切り結ぶことが重要なのです。

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怖いものは怖くていい

商業化されてはいますが、流行のパワースポットも、そういう装置になっている。若者たちが置かれている精神的な状況が過酷であるからこそ、流行るのかもしれません。パワースポットと呼ばれる場所は、神社なら本社に対する末社・奥社的な場所が多く、自然崇拝的要素を抱えもっています。そこはまた不気味な場所でもありますが、パワースポットという呼び名で、そういう部分が見えにくくなっている。われわれが言葉を失ってきたことの象徴です。古いからいいということではなく、生活の中に言葉をとり戻すことが大切だと思います。他界があっていま生きている世界があり、自然があって都市がある。そういう広い世界の中に自分を位置づけるためにも、聖地や神、魂や妖怪という言葉が不可欠だったわけです。
現代は、怖いことをなかったことにして、人前ではなかなか怖いと言えない社会になってしまいました。本当は怖いことは怖くていい。日本人は失敗やマイナスを集団で隠したがる傾向があります。戦争もそうでした。隠し続けてここまで来てしまった。普通の感覚で怖い、おかしいと感じることはとても大事ですし、あらためて失敗や怖さと正面から向き合う時代が来ているのだと思います。